「禅ヒッピー」 −ジャック・ケルアック−
ジャック・ケルアックは1922年マサチューセッツ州に生まれ、ニューヨークのコロンビア大学を中退した後、さまざまな職につきながらアメリカの各地を放浪し、サンフランシスコでギンズバークやゲイリー・スナイダーらと出会い、1957年に「路上」を発表し、一躍文壇に名を轟かせました。なんて誰でも知っているようなこと買いて行を稼いでもしょうがないのだけれど、10代の終わりの頃にアメリカの音楽や小説、映画などどんなものでもいいから興味を持ったということがある人であれば、ビート・ジェネレーションは避けては通れないのではないでしょうか。ただその中でどれだけの人がケルアックの「路上」とバロウズの「裸のランチ」を、読み通せたかというのはちょっと疑問ではあるけれどね。という私自身も実は上の2册は途中で投げ出してしまった輩です。ビート・ジェネレーションはそれぞれの著書を読むよりもそれらの人を誰かが描いた本や、書簡集、インタヴューの類いのほうがおもしろいというのが、私の結論なのですが、これもそれほど的外れなことではないと思います。基本的にビート・ジェネレーションというのは、まず主張やライフスタイルがあって、それを土台にして詩や小説といった作品があると思うからです。ある意味、彼等のライススタイルを分かっていないと本の面白さもあまり伝わってこない、−−例えば、この本がケルアックとスナイダーをモデルにした小説であるといったことなど−−のではないでしょうか。だからゲルアックが何年もかかって小説を書き続けたということが、逆に不思議な気さえします。
さて、なんだかんだといいつつ「禅ヒッピー」について書いてませんが、ケルアックの中で私が好きな本はこの本と「ビック・サー」です。
「ゼロ・デシベル」 −マディソン・スマート・ベル−
マディソン・スマート・ベルは1957年生まれ。高校時代までテネシー州の南部の裕福な家庭で農本主義の中で育ち、その後、東部のプレップスクールに進んでいます。しかし田舎出身の彼は、権力主義的な東部の大学のその校風に馴染めなかったようです。卒業後も作家になることだけは決めていたけれど、本を出版することもできず、食べることもままならない状態でスラム街を転々していました。そんな中、大学時代の恩師の紹介もあり、長篇「ワシントン・スクエア・サークル」でデビュー。この本を含めて第3作までは、評判もあまり好くなく、たいして話題に鳴子ともありませんでした。この「ゼロ・デシベル」は、そんなどん底の生活をしていた1991年に出版された彼の4冊目の小説で、アメリカではさまざまなアンソロジに取り上げられるなど、高い評価を受けています。この短編集は3部構成になっていて、1部と3部は南部を舞台としたもの、2部はニューヨークを舞台にしています。ニューヨークと行ってもほとんどがスラムで、たいていは貧乏な白人が周りにはスパニッシュや黒人しかいないようなスラムに住み、友だちもいず、といった設定になっていて、私はどちらかというとニューヨークを舞台にしたもののほうが好きです。
というよりも、もともと私は南部の作家と言われる小説のその南部らしさというものがどういうものなのか分かっていないので、アメリカの南部の生活が(特に現代の)想像できなくて、短編では伝わってくるものが少なくなってしまうような気がします。そういうわけで、短編ではイメージをつかみかけた途端終わってしまうのがもったないような、物足りないような気がします。この人が南部を舞台に描いた長篇を読んでみたいですね。
「すべてはイブからはじまった」 −R・アーマー、R・ベンチリー ほか−
アメリカに限らずどこの国においても、昔から伝わるほら話や笑い話といったものはありますが、第一次世界大戦後、未曾有の好景気の中で禁酒法など社会が大きく変動したの1920年代のアメリカは、いわゆるジャズ・エイジであり、ギャング・エイジであったと同時に、多くのユーモア作家が活躍した時代でした。たいていの新聞にユーモア・コラムが掲載され、雑誌にはユーモア小説が、そしてユーモア小説の専門誌までがあったそうです。そういったこの時代のユーモア溢れる小説やコラムをユーモア・スケッチと命名して「ユーモア・スケッチ傑作展」という3冊の本にまとめたのが、浅倉久志さんです。この「すべてはイブからはじまった」は「ユーモア・スケッチ傑作展」の番外編として組まれた本です。収録されているのは、リチャード・アーマー、フランク・サリヴァン、ロバート・ベンチリー、コーリィ・フォードといった作家で、少し長めのドナルド・オグデン・スチュアートの「パドック夫妻の海外旅行」をまん中に似かよった作品を前後に並べているようです。ただし「すべてはイブからはじまった」というタイトルにもなっているように(「アダムとイブ」のイブです。私はこの本を実際に手に取るまで、クリスマス・イブなどのイブだと思ってました)「男と女の考え方の違い、すれ違い」、もっというと「男(女)から見た女(男)のバカ(間抜け)なところ」を誇張したストーリーが多いような気がします。
この時代のユーモア作家たちは、人々をいかに(文章で、あるいはそのほかのことでも)笑わせるかということに必死になると同時に、狂気の時代と言われた社会変動の激しい時に、それまでのモラルを持ち続けようとし、社会の不正などにも勇敢に抗議していました。そして30年代になって禁酒法が廃止され、ヒトラーの台頭で社会に暗い影が押し寄せると、それまでのようにユーモア小説がもてはやされなくなってしまうのです。
「犬の生活」 −マーク・ストランド−
村上春樹の翻訳は、いつの頃からか”村上春樹の文体”が出ているような気がしてしまっていて、なんだか村上春樹の本を読んでいるみたいな気分になってしまう。きっとそれは私の偏見、というか思い違いなのだけれどね。このマーク・ストランドの短編集も、なんでもないちょっとしたことをちょっとひねったようにおかしく表現されていて、これは村上春樹的というよりマーク・ストランドの世界の一部なのだろうとは思うのですが・・・・。でもなんだかちょっと本当にそうなのかな、なんて思ってしまう。もちろん村上春樹がこの本を読んだ時の印象が翻訳に大きく影響しているのだろうから、実際にどうなのか、なんて私には分かりません。そんなことはいいとして、この本に収められている短編は、主人公が語るという形式が多いこともありますが、短編小説としての完成度はそれほど高くないと思う。しかしどこか共通した不思議な雰囲気を持っていて、話のおもしろさももちろんあるのだけれど(不可解な部分も含めて)、全体から漂うどこか”おかしな”世界を味わう本と言えるのではないでしょうか。
あとがきによるとストランドは、1934年カナダ生まれ詩人で、詩人として高く評価されると同時に、広く一般的な人気を得ていて、戦後のアメリカ詩を語る上で書くことのできない人ということです。また児童文学作家、翻訳家、編者など多彩な活動をしているそうです。私はそれほど詩に詳しくないので知りませんでした。翻訳はされているのかな。
「キャンディ」 −テリー・サザーン−
映画「マジック・クリスチャン」の原作、「イージー・ライダー」や「博士の異常な愛情」「バーバレラ」の脚色も手がけているテリー・サザーンのデビュー作。1958年(アメリカでの出版は1964年)に発表されました。サントラが再発売されたり、映画が再上映されたり、といったことがありそうでないですね。まぁ今さらではありますが・・・・。ちなみに映画の監督は、「素直な悪女」などに出演しているフランスの俳優クリスチャン・マルカン、音楽はデイヴ・グルーシン、主題歌はバーズが担当。内容のほうは、大学教授も医者も警官も叔父も・・・・ただやりたいだけ、というバカ話で、しかも途中で邪魔が入ったりして結局できない、というありがちな間抜けな話が続きます。途中、はっきり言って飽きてしまうのだけれど、中盤当たりからヨガの行者が出てきて処女を奪われ、チベットに修行に行って仏陀とセックスするなど、わけの分かんない状況に転がり込んでいく展開は、あまりにも60年代っぽくでびっくりしてしまいます。
出版当時ならともかく、今となっては社会風刺とかフロイトとかヴォルテールなんか持ち出すことも無意味。
それにしても、ただすぐそばにいる男たちに翻弄(?)されているうちにとんでもない方向に行ってしまう主人公のキャンディが、何を考えているか、何をしたいのか、といったことがまったく分からないところもすごいね。