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「アル・カイオラについての覚え書き」

小西康陽が書くライナーノーツは、たいていの場合そのレコードの内容とはあんまり関係ないようなものが多いのだけれど、それが一時期とても好きで、再発されたCDのジャケットをめくりながら、「これを一冊の本にまとめたらおもしろいのに」なんて友達とよく話していたものです。
そのあとしばらくして「これは恋ではない」が出版され、もちろん私も買ってみたけれど、まとめて読む小西の文章は、ライナーや雑誌のちょっとした連載で読む文章に比べてあまりおもしろくないような気がしてちょっとがっかり。同じ文章なのにね。最近では私が単にチェックしていないのか、それとも小西康陽があまり文章を書かなくなったのかわからないけど、一時期に比べて小西の文章を見かけなったように思えます。

ところで、フランキー・ヴァリの「アイ・メイク・ア・フール・オブ・マイセルフ」のカバーが収録されていることで有名な、レイ・テラス・オーケストラの「ホーム・オブ・ブーガルー」というアルバムのライナーノーツを小西康陽が書いているのですが、例によって、レイ・テラス・オーケストラについての記述はほとんどなく、「カップルズ」が出た年の夏に、札幌のレコード店でそのレコードを見つけたことや、その当時お金がなくて3000円以上のレコードを買えなかったこと、アルバイトを紹介されたことなどが書かれていて、ライナーとしてはかなり物足りないのだけれど、その夏、発売されたばかりの「カップルズ」を幾度となく聴いていた私としては、びっくりするような、ちょっと懐かしいような、気分になってしまいました。

小西はそのライナーを、「誰に教わったわけもない、自分で発見したレコード、という気持ちもある。皆さんも自分の眼力で、そういうレコードを見つけてほしい。すごくいいレコードが見つかって、それを得意気に僕に教えてくれたら、それは僕の最高の悦びでもあるのだから」という言葉で結んでいて、それを読んだ時に、私の頭に浮かんだのが、この文の主人公であるアル・カイオラのレコードでした。
今ではアル・カイオラが、自身のレコードを何十枚も発表し、何百ものレコーディングに参加した有名なギタリストであることを知っているので、恐れ多くも「私が発見した」なんて言えないけれど、彼のレコードを初めて聴いた時の私は、イージーリスニングのギタリストなんてほとんど知らなかったので、自分だけが知っているレコードを見つけたような気分になったものです。

アル・カイオラは、RCA、CBS、U.A.といったレーベルを中心に、1950年代から1960年代にかけて活躍したギタリストで、具体的にはアンドレ・コステラネッツやパーシー・フェイス、ユーゴ・ウィンターハルターといったオーケストラや、フランク・シナトラ、トニー・ベネット、ペリー・コモ、ローズマリー・クルーニー、イーディ・ゴーメなど多くのポピュラーシンガー、ハワード・マギー(tp)といったジャズミュ−ジシャンのバックなどをつとめるかたわら、60枚以上の自身のアルバムを残しています。
それらのアルバムは、基本的には、複数のギターによるアンサンブルとリズムセクションという編成のイージーリスニング、という域を出ないものばかりなのですが、イージーリスニングにしては情感に流されない輪郭のハッキリしたコンパクトな演奏や、ヴィヴラフォンやパーカッションをアクセントにしたリズミカルなアレンジが、私にとってアル・カイオラの大きな魅力です。

もちろん幾多のイージーリスニングのアルバムと同様に、アル・カリオラもアルバムによってメキシコやブラジル、イタリア、ハワイなど、さまざまな国の曲に焦点を当てていたり、その当時のロックやブルース、カントリー、映画音楽、ポップスの要素を取り入れていたり、サボイからジャズのアルバム出したりしているのですが、全体をとおして聴いていると、どれも同じような感触を持っていて、その感触というのが、イージーリスニングというには個性的な、でもジャズというには甘過ぎる、そして口がさけてもロックやブルースと言うことはできない、というラウンジテイストに、良くいえば貫かれています。 そういった意味で、50年代の職人的なギタリストと言えると思います。悪く言えば、時代を取り入れてはいるけれど、時代に対する革新性のまったくないサウンドと言うこともできますが・・・・。

まぁ所詮イージーリスニングなんで、革新性なんてどうでもいいんです。聴いていて退屈もしなくて、うるさくもなく、ちょっと心地いい気分やうきうきするような気分になればね。そういった意味でどんな時代でも、同じような体温の音楽を演奏し続けているアル・カリオラのようなミュージシャンって私にとっては大切なんです。



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