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■日々の雑記 −2004年−
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「丘の明り」−庄野潤三−
庄野潤三の本は好きだけれどどうも読んでいると個人的につらい気分になるので、読まないようにしているのだが、帯に永井龍男の推薦文が書かれていたのを見てつい買ってしまった。
電車の中で夫婦者と小さい男の子を連れた母親が話している内容をスケッチしたようなものから、戦時中に中国を旅行した時のエピソードをまとめたものなど、1963年から1967年に発表された短編を収録した作品集で、庄野潤三としてはヴァラエティに富んでいる(という言い方は似合わないけど)といえるかもしれません。
どれも日常的な断片を紡ぎ合わせたような穏やかで静かな作品で、こういう作品を読んでみると機会があれば60年代くらいまでの作品は読んでみようかな、と思ってしまう。

その庄野潤三が監修を手がけている小沼丹の全集が今、未知谷という出版社から刊行されている。全4巻で現在の時点で3巻まで出ている。
私は一人の作家の全集なんて買ったこともないけれど、小沼丹の本は講談社学芸文庫でしかほとんど手に入らないだけにちょっと欲しい、と思って調べてみたら、A5判の752ページもあるかなり豪華な、見た目には辞典のような本で、1冊12000円もしました。う〜ん、ちょっと私には無理か。いやたまには清水の舞台から飛び込んでみるか!?見るべきか!?
2004.9.6

「ゼラニウム」−堀江敏幸−
台風が近づいているせいで今週も週末は雨が降ったり止んだり、という天気。2日続けて近所から出ませんでした。
ほんとは巣鴨の三百人劇場でやっている「進め!ジャガーズ 敵前上陸」を観に行こうと思っていたんですけど、朝起きてカーテンを開けた途端そういう気もなくなってしまいました。一応昨日の夜、ネットで巣鴨周辺の古本屋なんかも調べておいたのに・・・・。ここのところ週末は福生も含めて中央線沿いしか出かけてません。来週はどこかに行きたいです。

とはいうものの、先週久しぶりに仕事で徹夜をしたら、普段割ときちんと寝ているためか当日はそれほど疲れを感じなかったのですが、やはりいつまでもだるさが抜けなくて、首から背中がどんより重い感じが続いていたので、2日間ゆっくりしてようやく楽になったのでそれでよしとしよう。
来週、堺正章主演の「喜劇 昨日の敵は今日も敵」でも観に行こうかな。どうなるのやら。
2004.9.5

「新潮日本文学アルバム 吉田健一」
先日、特に目的もなく「吉田健一」や「永井龍男」「稲垣達郎」「小沼丹」といった作家の名前で検索しては、本の好きそうな人のホームページを眺めていたら、小西康陽が吉田健一について書いた文章が紹介されていて、それが「これは恋ではない」にも収録されていると書かれていた。「これは恋ではない」が出た頃は吉田健一の本なんて読もうとも思っていなかったから読み飛ばしていたんだろう。そして今となっては小西康陽の本なんて読み返すこともないので全然気がつかなかった。
そもそも吉田健一と小西康陽が結びつかないし、日本文学と小西康陽が結びつかなかったりする。そんなことないか?

で、家に帰って久しぶりにページをめくってみたら、食べ物に関する本をまず読んで好きになり、旅に行くときに持って行ってホテルでお酒を飲みながら読んでいる、というようなことが書いてある。まったく記憶になかったけれど、これってすり込みなのだろうか。私も「私の食物誌」ではじめて吉田健一の本を読み、去年の北欧旅行に「舌鼓ところどこと」と「怪奇な話」「新編 酒にに呑まれた頭」の3冊を持っていって移動中の飛行機や電車、夜、ホテルの中などで読んでたのです。なんだかそういうのってうれしいような悲しいような気分になるね。
すり込みついでにその文章で紹介されていた「新潮日本文学アルバム 吉田健一」も購入。「これは恋ではない」でも書かれているように割と知られた写真ばかりだが、どの写真でもいい表情で写っている。そして村上春樹や村上龍でこういう本作ってもおもしろくないだろうな、とも思う。

話は変わって、昼休みを割と自由なときにとれる会社で働いているので、弁当を持ってきたときは12時45分くらいから昼休みを取って1時くらいまでに弁当を食べてしまって、それからちょっと近くでコーヒーを飲みながら本を読んだりしているのだが、その前に決まって本屋に寄ってしまう。そもそも新刊の本屋さんで本を買うことなんかほとんどないし、毎日のように寄っているので買うような本がないことは分かっているのだけれど、なんとなく平積みされている本を眺めたりしてお店の中を一周することが習慣になりつつある。
別に買うものがなくてもつい本屋やレコード屋に足が向いてしまうのはなぜだろうか。なんか自分の興味と全然関係ないおもしろそうな本やレコード(CDですね)が新しく出てるんじゃないか、と心の奥で期待してしまうのか。自分でもよく分かりません。

先日、いつもとは違う道を通って会社に戻ってきたら、大きな通りから狭い道をちょっと入ったところに古本屋を発見。それほど大きなお店ではないけれど、外に200円、300円コーナーが出ていたり2階もあったり(まだ上がってみたことはないけれど歴史関係が置いてあるらしい。)、なかなかいい感じ。会社の近くに古本屋があるのというのは素敵だ。
2004.8.31

「井伏鱒二 弥次郎衛 ななかまど」−木山捷平−
台風が近づいてきているため、今週はどうやら雨降りの週末になりそうだったので、土曜日は、雨が降り出す午前中から自転車で荻窪に出て電車で高円寺へ。
高円寺の駅前はどこからか祭りの音がしたり、なにやらやぐら組み立てられていたりそこいらじゅうに紅白の幕が張られていたり、あるいは商店街の人たちが屋台で売るらしいものを運んでいたり駅前は慌ただしい。今週末は高円寺阿波踊りだったのね。
どうせ夜まで高円寺にいるつもりはないので関係ないけれど、高校の頃、平塚の七夕祭りの期間中、テキヤの人たちがうろつく商店街を歩いて学校に通っていた感じを思い出した。
私も神奈川出身なのでどうこう言う資格はないけれど、なんだか地方のものを強引に東京に持ってこないで欲しいなぁとちょっと思う。そういうのはその地方だからこそのおもしろさがあるのではないかと。どうでもいいか、よくないか。わからん。

木山捷平は岡山出身、井伏鱒二は広島出身だが、地理的にはかなり近い場所であるとのこと。
二人とも戦争時には故郷に疎開していて、同じように文学に携わっているような何人かの友人を含めて疎開先でも時々あっていたらしい。その頃のエピソードをなどもこの本で触れているのだが、その集まりの中に「文学をやるには東京にいかねば始まらない」みたいな雰囲気が、どことなく漂っていて、特に井伏鱒二が疎開先から東京へ出てからは、それが加速して我れ先という感じでみんな東京へ出てくる。
そして木山捷平は西荻、井伏鱒二は荻窪に住むというわけだが、この本を高円寺の喫茶店で読んでいると、その頃の様子と今の高円寺の阿波踊りが微妙に結びついてくるようで、なんだか興味深いような気がしてくる。
2004.8.29

「大人のしつけ 紳士のやせがまん」−高橋義孝−
ドイツ文学なんていままで興味を持ったことがなく、思い浮かぶ作家といえばトーマス・マンとかヘッセ、カフカなどの学校で代表作を覚えさせられそうな作家ばかり。現代の作家なんてほとんど知らない。あっケストナーは大好きですね。
かといって、フランス文学やイギリス文学に詳しいわけでもないんですけど、同じ知らない国の本だったらドイツよりもイタリアやスペイン、ポルトガルといった国のほうがおもしろいような気がしてしまう。それは多分私が思索とか哲学といった深く物事を考えるということに無縁だからか。
そんな私がドイツ文学者であり翻訳家、文筆家の高橋義孝の本を読んでいるのは、単に高橋義孝が山口瞳の師匠だから。この本の表紙を柳原良平が描いているのもそんなつながりからだろう。ちなみに高橋義孝の師匠は内田百閨Aその師匠は夏目漱石なわけですが、高橋義孝としては、夏目漱石よりも森鴎外のほうを高く評価してるのがおもしろい。やはりイギリスよりもドイツなのですね。

そんなつながりは別として、高橋義孝のエッセイはおもしろい。靴はドイツの何処の靴しか履かない(日本で売ってないのでドイツに行ったとき買ってくる)、ネクタイはあれ、ボタンはこれ、下着はそれ、と洋服から食べ物、文房具、そして朝起きたとき顔を洗う順番まで決まっていて、それを絶対に守る頑固さ、自分がいいと思えるものは徹底的にほめ、ダメだと思うのはスパッと切り落とす潔さ、そしてドイツ文だけではない知識の豊富さなど、どの文章を読んでいても何かしら得るところがあるような気がする。
私などは、ときどきその頑固さや徹底ぶりに閉口することもありますけど・・・・。はっきり言って、こんな人の下で勉強するなんてことは私にはできません。
2004.8.26

「西瓜糖の日々」−リチャード・ブローディガン−
ブローディガンの小説は短い文章の集まりからその隙間から浮かび上がってくるさまざまな解釈や想像が、人それぞれそして読むたびに違ってくるところが好き。この本もまたいつか読み返すときが来るだろう。何冊かあるブローディガンの本をいまだに手放せないのは、手に入りにくいせいもあるけれどそれが大きい。一度読んで読む直す本って実はそれほど多くなかったりするし・・・・。

日曜日、いつものように荻窪→西荻→吉祥寺と自転車でまわったついでに、夜のおやつにと久しぶりにがちまいやでクッキーやショートブレッドを買った。で、夜、袋を開けてみると「10月に閉店する」という案内の紙が入っていてびっくり!ああいう個人でこじんまりと、でもしっかりとしたお店がなくなってしまうのは悲しい。10月までに何回行けるのかな、と思う。

8月のはじめにルーファスの新しいシングルが出たのでここ何週間かそればかり聴いている。前のミニアルバムとちょっと雰囲気の変わったハウステイストの楽曲でなんだか気持ちいい。これ聴きながらドライブとか行きたい気分になります。
それで4つ打ちの歌ものを聴きたくなってレコード屋で探してみたのだけれど、ハウスなんていままでまったく聴いたことがないもんだから何から手をつけていいか全然分からず。しかたなく前に買ったミズモトアキラの「am」なんて聴いてみたりして、「Sam the Samba Man」の途中で入ってくるアズテック・カメラの曲のフレーズに心踊らされてます。

雨が降ったりして少しずつ涼しくなってきたので、もう少ししたら昼休みにカメラでも持って会社の近くを散歩しようと思ってます。会社の近くではないけれど秋になったら・・・・と思ってた場所がたくさんあるのでこれからの季節の週末はちょっと楽しみ。
2004.8.24

「しあわせ かくてありけり」−野口富士男−
「わが荷風」という永井荷風論も出している野口富士男が昭和52年、66歳の頃に書いた自伝的小説。冒頭近くで主人公、夏夫の記憶の一番はじめにあるという、赤坂御所と豊川稲荷の間を入った九郎九坂、赤坂見附から清水谷公園あたり、赤坂の外堀通りと一ツ木通りの界隈がこと細かく描写されていて、つい引き寄せられてしまった。

簡単に話の内容を書くと、何か事業を企てては失敗を繰り返す父と元芸者母は、夏夫が2歳の時に離婚する。その後、母は芸者の置屋を経営し子供たちを育て、父は一旗揚げようと中国に行ったり昔の友達をつてに事業を始めたりと浮き沈みが激しい。二人は母親と血の繋がってしない祖父に強引に離婚させられたせいか、つかず離れずの関係だ。
夏夫は神楽坂の芸者屋で暮らしつつも、両親の自分たちのできなかった夢を託され慶応幼稚舎に通うが、甲斐性のない父に学費を出せるはずもなく学費を払うのは母で、父は新しい事業を始めては失敗し母の元に金の無心にくる、そして何度もそれに応じる母を夏夫は見ている。一方、夏夫は自分の居所が色街であり生家が芸者屋であることを、慶応幼稚舎での友達ひたすら隠し、夏休みは一人避暑地に出される孤独な子供だった。
で、その後、大学の中退、川端康成などのいた文化学院への入学、同人誌への参加、太平洋戦争、両親の死などが東京の風景とともに描かれているのだが、夏夫はそれらの出来事を全編をとおして静かな観察者として、淡々とその人生を語っていく。

この境遇を読んで私が思い出したのは山口瞳のことで、彼の父親も新しい事業に手を染めては失敗し、戦争時には軍事景気で羽振りが良くなったりそのあと失敗したりしている。そして祖母は昔、芸者の置屋を経営していた。これらの事実は山口瞳の大きなトラウマになっていて生涯つきまとうことになっているのだ。確かに野口富士男も自分が色街に住んでいることを必死になって隠すが、それに対する態度や気持ちはかなり冷静で、自分も母親の差し金でいとこと吉原に行って初体験をしていたりする。
野口富士男は1911年、山口瞳は1926年に生まれている。この二人の違いはそもそもの性格の違いも大きいのだろうけれど、その性格を左右したという意味でも、この15年の差の性に対する考え方や戦争に対する態度の大きな相違に、生まれる時を選べない人間の哀しさを感じてしまう。山口瞳はこの本を読んだだろうか、もし読んだとしたらどう思っただろうか。
2004.8.21

「おいしいコーヒーをいれるために」−中川ちえ−
コーヒーのいれかたなんて言うとどうもものすごい器具に囲まれてしかめ面をした喫茶店のマスターやカウンターに座ってしたり顔で「コーヒーは○○○に限るね」とか「△△△と◇◇◇を●対■でブレンドしたものが一番」なんて言っている親父の顔が浮かんだり、コーヒーに限ったことでなくなにに対してもストイックに「○○道」なんてつけたがる日本人の悪い癖か?なんて思ってしまうけれど、そんなのは獅子文六が「可否道」なんて本を書いていた昔の話ですかね。

いつも飲んでる割には、私のコーヒーのいれ方はかなり適当で、毎日「昨日を味が違うなぁ」と思う。「今日はちょっとおいしいかも」なんて思うときもときどきあるけれど、同じようにいれてるつもりでも、次の日に飲むコーヒーはやっぱり違う。
何かの本に「同じ味のコーヒーを3度続けていれられたら一人前」なんて書いてあったのを読んだ気がするけれど、3日続けて同じ味なんてぜったい無理。っつかおとといのコーヒーの味なんて忘れてるって。

さて、この本のいいところはなんといっても薄いこと、最小限のことしか書いてないことで、なんかひととおり読んでると、次からはおいしいコーヒーをいれられるような錯覚に陥ってしまう。
それはきっとお気に入りのコーヒーカップを始めて使うときや、お店で一目惚れしたコーヒーポットでコーヒーをいれてみたとき、などと同じ。でもそういう気持ちを重ねていったらいつかほんとにおいしいコーヒーをいれることができるかもしれない。
2004.8.19

「川釣り」−井伏鱒二−
私の釣り経験といえば小学校の頃に相模川に行ったときとうちの母方の田舎の河津にいったとき・・・・あとは何回か釣り堀に行ったっけ?そんなもの。
井伏鱒二の随筆は阿佐ヶ谷文士の中心人物としてずっと読みたいと思っていて探してはいるのだけれど、戦後すぐのものなどはなかなか手に入りにくいような気がする。改めて探してみると、そもそも随筆に限らず「黒い雨」と「山椒魚」以外の新潮文庫ってほとんど普通の本屋に置かれてない。「黒い雨」だけ読んで井伏鱒二を分かった気になるなよ。なんて私は「黒い雨」さえも読んでませんが・・・・。で、しょうがないのでその次に手に入りやすいと思われる「川釣り」を読んでみた次第。

題材が“釣り”ということもあってそれほど期待していなかったのが良かったのか、どの話も描写がどことなくユーモアでおもしろい。なんか老人が一人ぶつぶつと言いながら山の中に入って行き、釣果によって一喜一憂し、ときにはトラブルに巻き込まれてあたふたしている姿は目に浮かんでくる。中には「これは随筆なのか?創作ではないのか?」と思うくらいのものある。

6月の終わりに申請した古物商の許可がやっとおりました。ほんとは先週くらいに電話があったのですが、こちらの都合と担当者の都合が合わず、今日、会社に来る前に高井戸警察に寄って許可証をもらってきました。これまで一年ちょっと無許可でやってきてしまいましたが、これを機にまた利用してくださるみなさんに喜んでもらえるような古本屋になれるようにしなくては・・・・と思ってます。
こう言ってはなんだけれど、許可を取ったからといって一人前の古本屋さんということではないしね。最低限やらなくちゃいけないことの一つに過ぎないわけで、その最低限を一年間せずにやってきてしまって考えると返す言葉もありません。まぁいろいろな意味を含めてこれから、ということで今後もよろしくお願いします。
2004.8.17

「文房具56話」−串田孫一−
タイトルで分かるように串田孫一が、帳面、万年筆、封筒、ペーパーナイフ、虫眼鏡・・・・など自分が愛用している文房具について語った本。書かれている文房具の絵や写真が添えてあればいいのにと思う。

最後の方の章で、戦時中に物資不足で文房具も不自由になってきたときに、まずそのときあるもので何とかしようと工夫するのだけれど、それもままならなくなってくると万年筆はこれでなければとか、原稿用紙はあれでなければと気分的な贅沢を主張していた人が、あっさりとあるもので間に合わせる、あるいはなければないで済ませるという風に転向してしまったことについて、

「文化というのは、ある底力をもった根強さがあるが、その上に築かれている部分は意外と弱いものであって、愚かな権力者があらわれて、その文化は無駄なものだと無茶なことを言い出すと、簡単に崩れて、抵抗力がない。
みんな落ちるところまで落ちると、却って気分がさっぱりとしてしまったような錯覚に陥ってしまう。
実は私はそれが恐ろしいと思った。」


と書いていて、最近これを逆のことをよく考えていたので胸にズンときた。

今の時代は、ものがたくさんありすぎてたいていのものはすぐに手に入るわけで、その上で何かを売ろうすると、結局「こだわり」と都合よく使われている「どうでもいいような些細な違い」に価値をつけることしかできなくなっていて、それに振り回されるのはどうかと思うのだ。
「気分的な贅沢」を追求していくと、最終的にはものやその価値観に振り回されてしまって疲れる。本当に手放したくない「気分的な贅沢」と切り捨てるべき「気分的な贅沢」をきちんと分けてその場その場できちんと判断していくべきなのだが、例えば作家でもミュージシャンでも何かの研究者でもなく、普通の会社員である私に本当に必要なこだわるべきものってなんなのだろうか。わからない。
2004.8.14

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